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Monthly FACE 〜極める人々〜

平田 真純さん(待乳山本龍院 住職)

Profile

1957年、浅草生まれ。1969年、浅草寺伝法院にて得度。1979年、比叡山行院での修業を経て、1982年、大正大学を卒業。1990年、「待乳山本龍院」の住職となる。待乳山本龍院:聖観音宗。本尊は「大聖歓喜天」。浅草寺の子院のひとつで、浅草名所七福神のうちの「毘沙門天」を祀る。毎年1月の「大根まつり」でも有名。東京都台東区浅草7-4-1 TEL 03-3874-2030

待乳山本龍院ホームページ

自分の意識が大きく変化した瞬間。

イメージ 隅田川のほとり、小高い丘に建つ「待乳山本龍院」。葛飾北斎、安藤広重らの浮世絵にも描かれてきた風光明美なこの寺は、江戸よりはるか昔から多くの人々の信仰を集めてきました。今回のインタビューに登場いただいたのは、待乳山本龍院の住職である平田真純さんです。

その縁起は、推古3年にまでさかのぼるという待乳山。一歩間違えれば重圧にもなりかねない、それほどまでの歴史と伝統ある寺に入られたきっかけはなんだったのでしょうか?

「祖父の代から当寺でお務めをさせていただいていたというご縁が大きかったように思います。幼い時に得度はしたものの、自宅は境内とは別の場所であったので寺に生まれたという意識はあまりなく、いずれ自分は普通の人と同じように会社などで働くものだと思っていました。しかし、父が大病をしたのをきっかけに、これが“自分の進むべき道”であることを強く意識させられました。」

「21歳の時、比叡山で修業をすることになったのですが、恥ずかしながらこの期におよんで、果たして自分の進路はこれでよいのかと迷いが生じてしまい、山を降りようかとも考えました。そんな時、精神的なものでしょうか、胸やけのような状態が続いて呼吸でさえ苦しい状態に陥りました。具合が悪くなってから浮かんだのが“今こんな状態で帰ったらみっともない”という思いでした。」


修業中に本尊としていた不動明王に「残りの修業は心を入れ替えるから、どうか体調だけは戻して欲しい」と一心に祈ったところ、驚くことにその夜には痛みも苦しさも消えていたといいます。

「生活には支障はなかったので、気の持ちようだったとも言えますが、信仰というものが何らかの作用をすることがあると思わされた、“信仰の力”の存在を感じて自分自身が大きく変わった瞬間ですね。」

寺が神社になる?危機を乗り越えて。

イメージ 泥土を固めて瓦をのせた江戸時代の“築地塀”。区の文化財にも指定されている蔵前の札差が奉納したという「銅造宝篋印塔」。日光輪王寺の現存する「鳴龍」を描いた堅山南風画伯による“天井画”。境内をざっと歩いてみただけで、そこここに歴史の遺産を見ることができる本龍院。

さらに特筆すべきは、この寺の建築様式です。

「当寺は、仏法を護り人々に利益を施す神である“天部”を祀っており、日本古来の神々や他宗教の神を仏教に取り込んだ神仏混合思想が生きています。仏教寺院でありながら、滅罪回向を行わず、忌引きがあるといったことで、天部の性質がお分かりいただけると思います。そのため、いわゆる寺院ではありますが、本来は神社の建築様式として用いられる”権現造り”が採用されています。」

「権現造り」とは、入口から手前の拝殿と神を祀る本殿の2棟を一体化して、その間を“石の間”と呼ばれる弊殿でつないだもの。

「神社を感じさせるものは、他にも境内のいたるところにあります。鳥居に近い山門が設けられ、本堂の入口には“聖天宮”と描かれた額がかかり、境内には神楽殿があります。かつては神輿蔵まであったと聞いています。」

「明治の神仏分離令が出されると、これらの神仏混合の様式を見た政府の役人が“これは神社であると判断して、当寺はあやうく”神社”になるところだったと聞いています。天台宗の学僧たちが、これは天台宗の、仏教の大切な寺であると猛烈に抗議して事なきを得たそうです。」


寺が神社になってしまう。信仰の中身を見ずに建築様式だけで存在を判断されるという危機を乗り越えた本龍院。このお話をうかがうことで、建物という器が大事なのではなく、そこに集う人々や、彼らの持つ信仰心こそがその寺の本質を表すということがわかりました。

癒しの時代だからこそ、あえて慈悲と表裏一体の「厳しさ」も必要。

イメージ パワースポットといった言葉が流行し、若い人たちの間にもレジャー感覚で気軽に神社仏閣に参拝する人が増えてきました。そういった物見遊山の人々が口をそろえて言うのが、本龍院に入ると他とは異なる空気を感じるということです。

「世の中全体が柔らかさや緩さを許容し、人々が優しさや慈悲を求めている時代。果たして当寺もそうあるべきなのかと考えた時、それは少し違うのではないかという疑問を覚えました。待乳山本龍院は現世利益の寺として、厳しい現実に悩む人々が真剣に自分と世の中を見つめ直しにくる場所です。自分と本尊が1対1で向かい合う…そういった峻厳な雰囲気を作り出すべきだと感じています。ですから、境内に入ると思わず背筋が伸びる、思わず手を合わせたくなるようなピリっとした雰囲気を目指しています。」

本龍院に満ちる「峻厳さ」、これは建物が醸し出すものではなく、そこに居る人々によって作られる雰囲気であると平田住職はいいます。

「人でいうところの風格のある人といえば分かりやすいかもしれませんね。その人の風格を作るのは、外見にたよるところではありません。その人の考え方や周囲の人との縁によるものが大きい。外見…建物でいう外観でいくら風格を出そうとしても無理な話で、そこに居る人たちの気持ちこそが左右するのではないでしょうか。」

「当山1,400年もの歴史の中で、何人の方がお参りにいらしたのだろうかと良く考えます。数え切れないくらいの人々が真剣に祈ってきた…その方々の想いのDNAのようなものは、現代に生きる私たちにもしっかりと感じられます。それが当寺の峻厳な雰囲気を醸し出しているのだと思います。」

本龍院の未来を支えるカギとは?

イメージ 人口の減少、少子高齢化など、日本の抱える問題は深刻です。そんな状況下、葬儀仏教や檀家システムに対する批判など、仏教の危機が叫ばれるようになりました。そこで、檀家を抱えるお寺ではないにしろ、仏教寺院として本龍院のこれからをどう考えているか?という率直な質問を平田住職にぶつけてみました。すると、意外な答えが返ってきました。

「なぜか、絶対になくならないという確信があります。何万年先のこととなると別ですが、いくら人口が減ってきても、人々の求める解答がここにある限り、当寺は無くなることはないし、むしろ発展すると思っています。」

「伝統と格式がある寺の住職に、いくらなりたいといっても、ご縁がないとできないことです。今、歴史のある寺住職をさせていただけているのは、本当に有難いことです。ゆえに歴史や伝統を守っていく責任は大きいと受け止めています。そのために力を尽くさなければ、ご本尊さまに叩き出されるという感覚でいます。寺は安泰ですが、自分がここにふさわしいかどうか、いつも崖っぷちに立たされている気分です。住職としての仕事をきちんと全うすべく、当寺の進むべき道を懸命に考えていきたいですね。」


待乳山本龍院の本堂の脇からは、建設途中のスカイツリーがすぐそこに見えます。まわりの風景は刻々と変化していっても、変わらぬものは確かにある。そして、それを次の時代へとつなぐために支えている人がいる。芯が通っていないと揶揄される現代の日本ですが、平田住職のインタビューはそんな日本の未来に希望を感じさせるものとなりました。

(取材・文/小林未佳)


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