ひょんなことから畳職人へ
「おやじの跡を継ぐなんて、考えもしなかったよ」
東京都・大田区にある柳井畳店で、三代目の博さんは、笑みを浮かべながらあっけらかんと、そう語り始めました。
「だって、1枚いくらの畳を何枚作っても、結局はその分しかお金にならないじゃん。しかも、数が多くなればその分だけ安くなっちゃう。薄利多売じゃないんだから、畳店なんかもうかる商売じゃないんだよね」
高校生ながらにそう感じていた柳井さん。将来、家業の畳店を継ぐことなんか、少しも考えていなかったそうです。
「もちろん、手伝いくらいはしてたよ。でも、おやじから『継げ』って言われたことなんて一度もなかったからね。やりたいことなんて特になくて、魚が好きだったから、水族館とか水産関係の仕事がしたいなって思ったもんだよ」
当時はバブル全盛期。大学へ進学した柳井さんは、将来のことについてあまり深く考えることはなく、なんとなく学生生活を送っていたそう。しかし、そんな彼に大きな転機が訪れるのです。
「家族ぐるみでお世話になってた人なんだけどね、畳職人で畳専門の職業訓練校の先生をしてる知り合いから、『博、畳職人になるのか、ならねーのか。なるんだったら俺が面倒見てやるから』ってみんながいる前で聞かれたんだよ。そこで『NO』なんて答えられねえじゃん(笑)。だから、『よろしくお願いします』って答えたんだよ」
ようやく決心して畳職人への道を歩み始めた…わけではなく、こう答えた背景には、彼のある思惑があったのです。
使い物にならなかった修行時代
「本当は、好きな仕事でもやりながら、家業の畳店も両立させようとしてたのよ。当時は“アフター5”なんて言葉もはやってたころだったし、メーカーとか金融系とかの会社に就職すれば、5時にはぴたっと帰れるような時代でさ。本業が終わってからの時間帯に、家業の畳店で職人さんをマネジメントしながらどうにかやってこうって考えたんだよ。だから、いろいろ教えてもらえるのはありがたいなってね。いま考えると無理なんだけどさ(笑)」
大学に通いながら、週に1回、畳専門の職業訓練校に通うこととなった柳井さん。すると、それまでの気持ちがうそのように、畳職人への思いに変化が表れ始めるのです。
「ずっと家業を手伝ってたから、いざ訓練校に通ったら先生の教えてくれることが、ほぼほぼ分かるわけよ。『あのことだ、このことだ』ってね。訓練校には3年間通うんだけど、1年生のころには賞ももらっちゃってさ。楽しくなってきちゃったんだよ」
その後、訓練校を卒業した柳井さんは、晴れて家業の柳井畳店へ就職。本格的に畳職人として門戸をたたくのです。
「最初は使い物にならなくてね。売り物にならないと意味ないから、一生懸命やるんだよ。すると、時間がかかる。何回、親方からばかだのなんだの言われたか分からないな。でもね、人には恵まれてた。当時から親方って呼べる人もたくさんいたし、みんなかわいがってくれるんだよ。見習いでは使い物にならないような現場にも連れてってくれてさ。仕事はできなかったけどね」

時代の変化に逆行するために課した使命
そうして経験を積んでいった柳井さん。あるときは重要文化財、またあるときは公的機関で畳作りをすることもあったといいます。
「言いたいけど言えないような場所で仕事をさせてもらったりね。『こんなところで仕事していいの?』ってさ(笑)。ああいう経験は本当にありがたかったね」
現在でもそういった案件の受注があるという柳井さん。はたから見れば、順風満帆な職人人生を歩んでいるかのように見えますが、ある“時代の変化”が彼を、そして畳業界を脅かすのです。それは、畳文化の衰退でした。
「20年前くらいからかな。畳の部屋が減ってきたんだよ。昔は3部屋あった畳の部屋が、その頃くらいから1部屋になってさ。そして10年前くらいからは、畳がオプションになっちゃって、フローリングが世の中のスタンダードになったんだよ。今はもう基本的に和室を作らないようになっちゃったかな。フローリングよりコストがかかるから、坪単価が上がって和室がなくなっていってるんだよね」
いくらいい畳を手作りしても、時代の変化には太刀打ちできないのが現実。その結果、閉店を余儀なくされた周辺の畳店も少なくないといいます。
「どんどん閉店してるんだよ。でも、このままその流れが続くと、いくら畳文化が衰退してるとはいえ、依頼がうちに集中して今度はうちだけじゃ回せなくなっちゃう。だから、体が動くうちに人を育てないといけないかなって思ってるよ。見習いのころに親方たちに教えてもらったようにさ。いまは、未来につなげていくことが使命だと感じてるよ」
