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Monthly FACE 〜極める人々〜

小曽根美佐夫さん(ピッツァ職人)

Profile

1973年生まれ。栃木県出身。中学校を卒業後、製菓専門学校に入学。卒業後は京都の和菓子店で和菓子職人としてキャリアをスタートするものの、4年半で退職。その後、さまざまな職を転々とする中、ある1冊の本をきっかけにイタリアで調理師としての新たなキャリアを歩み始める。途中、イギリスでの修行を含め、15年におよぶ海外勤務を経験。帰国後は恵比寿にあるイタリアンレストランに勤務し、2017年に独立。現在は「エビスエスクラッシコ(恵比寿)」「ジャンカルロ東京(六本木)」など3店舗のレストランを経営する。

1冊の本をきっかけにイタリアへ

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2016年にイタリアで開催されたナポリピッツァの大会「COPPA ITALIA PIZZA DI QUALITA」で総合優勝に輝いた小曽根さん。250人以上のイタリア人ピッツァ職人を物ともせず、日本人初となる快挙を成し遂げました。

しかし、彼がピッツァの世界に足を踏み入れたのは、今からさかのぼること10年ちょっと。最初のキャリアは、意外にも和菓子職人としてスタートしているのです。

「ドキュメンタリー番組で『老舗の和菓子店が惜しまれつつ閉店する』みたいなのを見て。それに感化され、『俺がそういう店を継いでやる』と思ったんです。単純ですよね(笑)」

そうして和菓子職人としてのキャリアをスタートさせた小曽根さん。しかし、まだ10代だった彼にとってはあまりにも過酷な職人の世界…。「修行のため」と割り切りつつも、4年半の時を経てついに辞めてしまいます。

「なんとか首の皮一枚で頑張ってたんですけど、朝から晩まで働いて門限も19時。掃き掃除とかしかやらせてもらえなかったので、将来のことを考えると不安で不安でしょうがなかったんですよね」

その後は、「食」からかけ離れたさまざまな職業を体験。新たなキャリアを模索し始めました。

「携帯電話の営業やトラックの運転手、電気工事のアルバイトなど、いろいろな職業を転々としていました。どんな職業が自分に合っているか分からなかったので、決められた枠の中だけで模索したくなかったんですよね」

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そんな小曽根さんに転機が訪れます。書店員として働いていたころ、勤務先の書店である1冊の本と出会うのです。この本が人生を大きく決定付けることになるとは、26歳の彼は知る由もありませんでした。

「イタリアの街並みを写した写真集を見て、なんとなく『海外ってすごいな』って感じたんですよね。当時、5歳下の弟がイタリアで調理師として働いていたこともあり、兄と一緒にイタリアに行ってみたんです」

人生において、無駄なことなんて一つもない

持ち前の行動力を生かし、すぐさまイタリアへ飛んだ小曽根さん。そこで見た景色は、彼の人生観を変えるほど衝撃的なものでした。

「旅行気分で行ったんですが、衝動的に『住みたい』と思ったんです。日本よりも時間がゆっくり流れているように感じたし、仕事をしながらもみんないい意味で力が抜けていて。日本だと仕事中にしゃべってたら『ちゃんと働け』って言われるじゃないですか(笑)。でも、イタリアはそうじゃなくて全てにおいて自由な感じで、それまで見てきた人生観とは丸っきり違うなって感じたんですよね」

しかし、イタリア語を話せるわけでもなければ、胸を張れるほどのキャリアを積んできたわけでもありません。普通ならここで諦めてしまう人が多い中、彼はあるチャレンジに打って出るのです。

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「弟が以前働いていたイタリアの二つ星レストランに『働かせてくれないか?』って交渉しに行きました。弟に教えてもらったフレーズを腕に書いてそれを読んだだけなんですけどね(笑)。当時はろくに包丁を使ったこともなかったんですが、『オッケー、来いよ』って言ってもらえて。働かせてもらえることになりました」

調理師としてのキャリアはないながらも、働き始めてから半年ほどでメインとなるパスタ場のオーナーに抜てきされます。その功績の要因として、「和菓子店での修行が大きな武器になった」と振り返ります。

「それまではずっとデザートを作ってたんですが、ある時、スープを作らせてもらえることになって。和菓子店での修行時代は親方がやってるのを見て覚えたので、それが癖になってたんですよね。他のコックの作り方とかを見ていたので、経験がなくてもスープを作れたんです。その後、僕の作ったスープが地元の新聞に取り上げられたことを評価され、パスタ場のオーナーに抜てきされました」

可能性を見つけるためには、多くのジャッジが必要

その後は、経験を積むためにも1年働いては次なるレストランを転々とする日々…。明確に1年と決めていたのには、「春夏秋冬を通してその職場を経験する」という目的が含まれていました。

「2軒目の修行場所となるレストランでは、メインディッシュを任せてもらいました。イタリアは実力主義なので、経験に関係なく責任の重い仕事を任せてもらえるんです」

イタリアで5軒ほどのレストランを経験したころ、イギリスにあるイタリアンレストランからオファーを受け渡英。その後、イギリスで6年ほどの修行を経て日本に戻ろうとしたとき、大きな大きな忘れ物をしていることに気付くのです。彼が33歳の時でした。

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「せっかくイタリアに来たのに、ピザを作ってないじゃんって。どうせ来たなら大好きなピザを焼けるようになってから帰ろうって思ったんです」

そうして、再度イタリアに戻るとナポリピッツァの勉強にいそしむ日々。すると、修行から2年目には、ある大会の揚げピッツァ部門で準優勝を飾るなど、輝かしい功績を残すまでになります。

トータル15年にもおよぶ海外勤務を経験し、彼が日本に戻ってきたのは7〜8年前のこと。その後は、現在オーナーとして運営する表参道のイタリアンレストランで5年ほど勤務。そして、2017年に独立を果たします。

「紆余(うよ)曲折を経て今に至りますが、自分の可能性ってどこで開花するか分からないんですよね。日本で活躍する場を見つけられなければ、海外も視野に入れてほしいなって。そもそも、誰か一人が自分の可能性を決めるものでもないですし。より多くの人にジャッジしてもらった方が、その可能性は確実に広がりますからね」

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