60種のグラインダーを使い分けて模様を刻む

大阪市都島区の住宅街に、国内最年長のガラス切子職人・藤本幸治さんの工房があります。1929年生まれ、現在90歳。この道70年のキャリアを持ち、切子とサンドブラストを組み合わせた藤本さんならではの技術で、ランプシェードやグラス、お皿などのガラス製品の表面に、美しく華やかな模様を刻み続けています。
「このグラインダーという砥石(といし)を回転させ、そこにガラスを押し当てることで模様を付けていくのが切子。グラインダーは60種類以上ありますが、模様によって使い分けます。年を取ると目が見えにくくなって、細かい模様を刻むのは大変なんですが、医学の進歩のおかげでなんとかやってます(笑)」
藤本さんは奈良県吉野郡の出身。子供の頃から図画工作が得意で、絵を描いたり模型飛行機を作ったりするのが好きだったといいます。

「でも5年生になると畑や炭焼きなど家の手伝いも増えて、絵を描く時間がなくなりましてねえ。6年生になると戦争が始まり、14歳で大津陸軍少年飛行兵学校へ入りました」
終戦後は実家の農業を手伝っていましたが、20歳の時、「大阪で、ガラスコップに絵を描く仕事があるが来ないか?」と4歳年下の弟に声が掛かりました。しかし、「そういうのは、自分の方が得意かも」と、藤本さんがその仕事を受けることに。そして、大阪・天満にある「水野硝子加工所」に就職し、住み込みで見習い工としての生活が始まりました。
逆境時だからこそ新しいことに取り組んだ
「見習いとしては遅いスタートです。でも30歳まで一生懸命に頑張れば、職人としてなんとかなるかなと思ったんです。ここではガラスコップに切子でバラやキクなどの花模様を描くのが主な仕事で、1カ月のお給料は2000〜3000円。いつか独立したいという目標があったので、休日も遊びに行かずにひたすら貯金。休みの日の楽しみは10円の貸本を借りて読むことでした」
そうして貯めたお金で、27歳の時に現在の工房がある場所に土地を購入。実家の山の木を父と弟と一緒に切り出して製材し、知り合いの大工さんに助けてもらいながら、1年余りをかけて自力で2階建ての家を建てました。工房兼住居ができたことで、29歳の時に目標だった独立も果たしたのです。

「その翌年には結婚。親孝行と家業を第一に考える、価値観の合う妻でとても幸せでした。その頃は高度成長期ということもあり、朝8時から夜10時まで、作業すれどもすれども追い付かないほどの仕事量でした」
しかし、その後はガラス加工にも機械化の波が押し寄せ、人件費が安い中国へと仕事が流れていきました。60軒ほどあった同業者も半分ほどが次々に廃業。藤本さんも雇っていた職人さんに退職金を支払って転職をしてもらい、妻と2人で家業を続ける決断をしました。
「逆境時だからこそ、ガラス製品の穴開けなど、仕事の幅を広げました。さらに何か特徴を持たせたいと考えて導入したのが、サンドブラスト加工の設備だったんです」
サンドブラストとは、金剛砂という硬い砂をガラス表面に吹き付けることですりガラス状にするという加工技術。藤本さんが切子とサンドブラストを組み合わせたデザインを取引先に提案したところ、見事、受注にもつながりました。
日々、勉強。見たものすべてがデザインの役に立つ
「1998年の暮れに、食器の加工をさせてもらっていた大きなガラスメーカーが倒産しました。その翌年は私の売り上げも半分になって、職人生活で一番、暇だった時期です。その頃、同業者は20軒ぐらい残っていたのですが、協同組合も解散となり、その後も残ったのは若くて経済力がある人だけ。一般の人向けの切子教室を開いたり、技術のある人は作家として活動したりと、誰もが次の道を模索。私はもう70歳になる年でしたから、妻からは『もう今さら作家を目指すなんてことはしないでね』と、くぎを刺されたんですけどね(笑)」

時間ができたことで、「やってみたかったデザインに挑戦しよう」と考えた藤本さん。年を取ってからの楽しみにしようと、縁が欠けたコップや見本品のお皿などを捨てずに取っておいたといい、それらを活用し、切子とサンドブラストで植物や風景など自由なデザインを刻み始めました。そんな時に出会ったのが、この20年間にわたってランプシェードの加工を発注し続けてくれている企業の社長です。藤本さんの作品を見て感動し、「こんな技術をお持ちなら、ぜひ作ってもらいたいものがあります」と取引が始まりました。
「職人歴は70年になりましたが、今も絶えず日々、勉強です。図案を考えるのも私の重要な仕事ですから、街を歩く人のファッションもテレビに映る風景も、何かのデザインにきっと役立つと考えて見ています」
楽しいだけの仕事はどこを探してもない―。藤本さんはそう言います。
「どんな仕事でも、一度や二度はつらい時期にぶち当たるものですが、それを乗り越えたらもっと楽しく仕事に向き合える時間が待っています。今、ありがたいことに、私は好きなことをさせていただいています。作品を喜んでくださる方がいる限り、元気な間は仕事をし続けていくつもりです」
