厳しい局面でも、アクセルを踏める性格のおかげで前に進めた

「小さいときから、手で何かを作るのがとにかく好きでした」と話すのは、靴修理職人の村上塁さん。現在は、横浜で60年にわたって靴の修理を行っている「ハドソン靴店」の二代目として、高い技術を要する靴の修理に携わっています。テレビ番組の密着など、数々のメディアにも取り上げられるほど注目を浴びている村上さんですが、ここにたどり着くまでには紆余(うよ)曲折の長い道のりがあったと明かします。
「大学では機械システムデザイン工学科に入りましたが、やりたいことが分からないままで、モヤモヤする日々を送っていました。そんな生活のなかで、自分にとって楽しくてやりがいのある仕事をしたいと真剣に考え始めるようになっていたとき、たまたまテレビで目にしたのがオーダー靴の職人さん。手仕事に関係する職業を探していたこともあり、すぐに興味を持ちました」
大学を辞めて靴の専門学校に通い始めていた村上さんが当時習っていた先生の紹介で出会ったのが、「ハドソン靴店」先代の佐藤正利氏。弟子として技術を習得したのち、浅草の靴メーカーへ就職が決まります。しかし、過酷な労働環境のなかで苦しい生活を強いられることに。
「職人としてちゃんと働いていたにもかかわらず、月給は3万円ほど。当時の僕は、職人とはそういうものだと思ってまひしていたんですが、30歳を目前に父親から『夢だけでは生きていけないよ』と冷静なアドバイスを受けて目が覚めました。一時は靴業界から離れることも考えましたが、ここまで培ってきた技術をこのまま捨てるのはもったいない。何とかしたいとあがいていたとき、先代が亡くなり、奥さんから『誰かお店を継いでくれないかな』と話があったんです。なかなか手を挙げる人がいなかったようですが、僕はこのままでいるよりもいいと考えて、引き継ぐことを決めました」

後輩と一緒に再スタートを切ったものの、オーダーメイド靴の需要が減っていたことや先代の顧客の高齢化、さらにシャッター商店街という立地条件の悪さで売り上げが立たない日が続くことも。
「考えが甘かったというのもありますし、修理の技術も未熟なまま始めてしまったので、当然お客様も離れていきますよね…。数カ月後には後輩も辞めてしまい、ついに一人になりました」
そこで一念発起した村上さんは、営業時間が終わると、フランチャイズで靴の修理を行っていた友人の元に通い、作業の様子をのぞきながら、独学で修理の知識を身に着けていきます。そんななか、村上さんはある事実に気が付くことに。
「靴修理において業界の主流は、早くて安いこと。それ故に、時間のかかるような難しい修理が必要な靴の大半は断られていることを知りました。そういった“世の中で宙に浮いていた靴”の修理を受けるようにしたら、どんどん口コミで広がっていったんです」
とはいえ、当初は採算度外視で請け負っていたため、周囲から心配されることもあったのだとか。
「僕は、普通の人だったらブレーキを踏むところでアクセルを踏める性格なので、無謀なこともできたのかなと(笑)。しかも、当時は一人でゼロから始めて、失うものがなかったというのも大きかったかもしれませんね。ただ、この10年の間に何十人、何百人の方に助けていただきました。そのおかげで今があると感謝しています」
“いい職人の条件”は、お客様の意見に真摯(しんし)に耳を傾けられること
現在、村上さんの元に全国から届く依頼は、年間1500足にも及びます。仕事に追われるなか、やりがいを感じる瞬間とは?

「一番は修理が終わったあとに、お客様の笑顔を見たときや感想を聞けたときです。それがなかったら、もっと早くに辞めていたでしょうね。お客様の要望も反応もそれぞれまったく違いますが、そういうところも飽きっぽい僕の性格には向いているのかなと(笑)。これからも、お客様の意見に謙虚に、そして真摯に耳を傾けていきたいです。それが“いい職人の条件”でもあると思っています」

職人という厳しい世界で戦い続ける上で欠かせない強みについて聞いてみると、自身のことも分析しつつ教えてくれました。
「僕は、『先代や靴職人の関信義さんから教えていただいた技術が通用しないわけない』と思っていましたし、お店がうまくいっていないときでも、『誰にも負けるわけない』という根拠のない自信だけはありました。これはどんな職人さんにも共通するものだとは思いますが…。あと、僕が靴業界で生き残ってこられたもう一つの秘けつは、靴に対して常にフラットであること。もともと靴マニアだったわけではないので、価値のある古い靴も新品の靴も僕にとっては同じ。靴に優劣を付けることがない分、どんな靴にもちゃんと向き合えるんだと思います」
職人と経営者という二足のわらじを履いている村上さんですが、日々感じているのは両立させる難しさ。
「僕の経験上、技術至上主義の職人と数字を追う経営者は真反対にいるので、そのバランスを取るのが大変ですね。ただ、僕が立ちたいのはピラミッドの頂点ではなく、円の真ん中。周りの人たちをうまく巻き込んで行けるようになるのが理想です。先代の口癖でもある『一生勉強』という言葉を大事にしながら、進んで行けたらと」
取材中、たびたび自分のことを「飽きっぽい」と称していた村上さん。しかし、その飽きっぽさこそが、好奇心へとつながり、新しい一歩を踏み出す原動力になっているのだと感じさせます。
「今は修理だけでなく、靴の製造も始めましたが、最近は文房具やかばんのメーカーともコラボをしています。その理由は、このままでは靴業界が先細ってしまう可能性が高いので、もっと他業界にも目を向け、外からの風を取り込んでいくことが必要だと痛感しているから。後進育成にも力を入れたいので、将来的には現代版の徒弟制度も復活させたいと考えています。そのためにも、村上塁としてではなく、ハドソン靴店として世界に名前を広めていくのが今後の目標。そして、いつか僕が職人を引退したときに、次の世代にハドソン靴店を引き継いでもらえたらうれしいです」
