旅館ならではの気遣い、料理にも
今年で創業100年を迎える、埼玉県飯能市の旅館“大松閣(たいしょうかく)”。同旅館で調理長を務める阿部さんは、四季がもたらす山・川の恵みを使った丁寧な料理で、訪れる人々をおもてなししています。
「“旅館に泊まる”という行為の中で“料理”は重要な要素の一つ。来ていただいたからには、ほっとして心が安らぐような料理をご提供したいと考えています。たとえば、鍋料理一つを出すにしても、接待の席の場合、おもてなしする側の人はどうしても料理を食べられなくなってしまいますよね。せっかく旅館に来ていただいたのに、それでは申し訳ない。なので、そういう場合は、ご家族で来ている場合とはちがって、一人ひとり別の鍋でご提供するようにしています。夕食をつくる時も、ゆっくりご飯を食べたい方と、お酒を飲みながら楽しく宴会したい方とでは、お出しするものを変えたり。あんまり頑固にやってもね。こだわりを持ちながらも、柔らかくいられるようにと思っています」
ほかにも、法事の席や祝いの席など、シチュエーションに合わせて食器の雰囲気を変更するなど、細かい気配りを怠りません。そして、阿部さんの持つ、もう一つのこだわりは“既製品を極力使わないこと”。
「“買ったもの”と“つくったもの”って、すぐわかるんですよ。忙しいからといって、はさみが1本あれば間に合うような料理を出すのはどうかなって。それに、ちゃんと一からつくることで、若い子たちに『こうすれば、こういうものがつくれるんだよ』ということを教えてあげられるじゃないですか」
「飛び出した以上は、もう帰れない」
料理人の減少が危惧されている日本料理の世界。事実、調理師学校では、日本料理を専攻する人は少数派だとされています。板前としての道を歩んだとしても、その厳しい世界を前に去っていく者が少なくない――そんな中、大松閣では、阿部さんが調理長に就任した2008年以来、板前の離職者が一人もいないといいます。
「自分がこれまで教えてもらったことは、全部教えるようにしています。昔みたいに『教わるんじゃない、見て盗め』ということをやっていても、仕方がないかなって。厳しい世界ではありますけど、やりやすいようにはしてあげたい。失敗したっていいんです、やり直せばいいだけですから。結局は自分で手を動かさないと、頭でっかちになるだけ。私は、最終的には、みんなに独立してほしいと考えているんです。いつまでもだれかの下にいるんじゃなくてね。ここでの経験が、その時の糧になれば」
そう考える背景には、阿部さん自身がつらい修業時代を乗り越えた過去があります。岩手県内の高校を卒業した阿部さんは、電気系の会社に就職。その後、「あてもなく辞めて、生活するためにアルバイトを始めた」のが磯料理や和食を中心とする食堂でした。
「2〜3年続けていくうちに、日本料理のことをもっと知りたいと思うようになったんです。当時22歳ぐらい。その道を目指す人からすればタイミングは遅かったんですけど、『仕事が見つかるまではそこで働く』という条件で、居酒屋をやっている人を紹介してもらって上京しました。近くに友達もいない、親もいない――つらくったって、帰る先は仕事場しかありませんでした。飛び出した以上、もう帰れないという思いで働いていた」
ノートに残る、約30年の料理人生
その後は割烹(かっぽう)旅館、ホテルと職場を移し、板前としての腕を磨いていった阿部さん。一人前になるまでに要した期間は「やっぱり、20年くらいかな」。その間はもちろん、調理長を務めるようになった現在も続けていることがあるといいます。
「教わったことを忘れないように、逐一ノートをとっていました。自分が初めて旅館に入った時、同い年の人は煮方(=煮物をつくる人)という、現場の軸の一人になっているんですよ。ああ、自分は本当に何も知らないんだなと思って、その日にやったことを全部書き残すようになったんです。出だしが遅かった分、必死でした。実際、やったことを忘れて『何だったっけ?』という人と、しっかり忘れないようにしている人とでは、差が出ますよ。自分は、いまでもどんな料理をつくったかのレシピや献立を記録しています。お店によって、つくるものがちがいますからね。上京してからの約30年、すべてのノートがあります。参考書代わりですね」
そんな、日々のたゆまぬ努力が実を結び、40代の時には埼玉県の技能競技大会で最優秀賞を受賞。そのほかにも、これまで数々の賞を受賞しており、四季折々の素材を使った深みのある料理とその繊細な盛りつけが評価されています。
「魚をおろすにしても、お豆をもどすにしても、日本料理は奥が深い。昔からの伝統を守りながら、いまの時代に合わせて新しいことをやる大変さはいまも感じます。料理の見た目も大事なので、たとえば緑の野菜なら緑、赤の野菜なら赤――その色が一番いい状態で出そうとしても、大人数の料理を用意しているうちに色が変わっちゃうとかね。どんどん経験を重ねて覚えていくしかないんです。でも、結局、一番大事なのは気持ちですよ。自分に任された仕事を“やらされている”のか“好きでやっている”のか。仕事だけじゃなくて、職場を好きになる。それが、自身の成長にもつながるんだと思います。うちで働いているみんなにも、そう思ってもらえていれば」