ピアノを新品のようにする“クリーニング”
長年使われたピアノには、人の指の油汚れをはじめ、タバコのヤニ、ホコリ、カビ、サビなどが蓄積していくのをご存知でしたか? 根岸さんは、そんなピアノを“クリーニング”するプロフェッショナル。ピアノの運送などを行う神奈川県の企業“アクティブリーズ”に併設されたクリーニング工場の工場長で、日夜ピアノと向き合っています。
「ピアノのクリーニングをご希望される方は、『せっかく家が新しくなるので、ピアノもきれいにしたい』と、家の引っ越しやリフォームに合わせて…というケースが多いです。クリーニングサービスの中には調律も入っていますが、私が行っているのは、あくまでクリーニング。調律は調律師の方が別に行っています」
クリーニングの内容は、金属部分のサビ取りやサビ止めの塗装、打ち傷や擦り傷の磨き込み、鍵盤に付着した指の油汚れの研磨、弦のサビ取りなど。1台あたり、約2日掛けてクリーニングしており「ピアノが新品のようになった」という利用者からの声が複数届いており、その仕上がりには定評があります。
「私もピアノを弾いているので、自分のピアノを扱うような気持ちで臨んでいます。クリーニング工場に運ばれてくるピアノには、弾き手の長年の思い出が詰まったものや、自分が使ってきたピアノを子供や孫にあげたい、という背景もあって、ピアノの裏側にある物語や思いを知ると余計に力が入りますね。ピアノはもともと高価なものですし、大事に思われているケースが多いんです。なので、きれいにしようと思えばキリがないんですけど、ついつい時間を掛けちゃうんですよね」
前職の経験がいまの仕事に生きている
ピアノをクリーニングする時は、外側のパーツの一部を取り外すなどして、普段は手が届かない奥の汚れまで落としていきます。専用の消しゴムで弦のサビを一本ずつ取っていったり、細い棒を駆使して人の指が入らない部分の汚れを取ったりと、非常に地道で根気のいる作業ばかり。それでも、根岸さんは「楽しいんですよ。私はもともとロボットマニアで、機械の裏側を見たり、大規模な建築現場を見るのが好き。ピアノは、ミクロな部品の中を探検しているような気分です」と話します。
根岸さんが“ロボットマニア”になったのは、自動車の修理業を町で営んでいた父親の影響。小学生の頃には車や戦車のプラモデルをつくるのが楽しみだったと言います。そして、高校卒業後は大手自動車リーダーに入社。新車の点検や車検などをはじめ、自動車の整備を行っていました。
「自動車の整備とピアノのクリーニングって、どこか似ているんですよね。車が安全に走るためにはブレーキやマフラーに異音がしてはダメ。ピアノの場合は、ペダルがギシギシ言っていると弾くのに影響が出てしまいます。業界は違えど、“きれいにする”というのを入り口に考えれば、参考になることは山ほどあるなと思います。私は今年54歳ですが、いろいろな業務を経たいま、点と点がうまく結びついている感じがしますね」
Before
After
自動車リーダーを退職後は、他業界の営業職などを経て、現在の前職であるピアノの運送会社へ。ピアノに関する会社に就職したきっかけは、転職活動中に訪れた工学系の展示会で見たサイレントバイオリン。「気分転換に」と購入し、バイオリンを習おうと入った音楽教室でピアノも勧められたと言います。
「学生時代にギターを友人から買って弾いてみたんですけど、全然ものにならなくて。でも、バイオリンならギターより弦の数が少ないからいけるんじゃないかなって(笑)。でも、それがきっかけでピアノにかかわる仕事をしたいな、と思うようになったんですから不思議な縁ですよね。その会社では調律師の方からクリーニングのことや、パーツの脱着、塗装についてなど、いろいろと教えてもらいました」
その後、当時の取引先だった現在の会社の代表にその腕を買われ、現在に至ります。
新しい家に、美しくよみがえったピアノを
「自動車の整備もそうですが、自分は手を動かす仕事が好きなんだと思います。初めてピアノのパーツを外して中を見た時はその複雑さにびっくりしたんですけど、一方で『分解したいな』なんて気持ちも出てきちゃって」と、子供のように笑う根岸さん。クリーニングと調律が終了した後の楽しみは、ピアノを“試し弾き”することなんだそう。
「よく弾くのは、中島みゆきさんの『ヘッドライト・テールライト』。ピアノの具合を確認するために弾いているんですが、その時、『きれいになったピアノを見て喜んでくれるかな』『これから、このピアノはどんな人が弾くんだろうな。鍵盤の油汚れが目立ったから、よく弾いてる人なんだろうな』というような思いが頭をよぎります。クリーニングは調律と違って音が良くなるわけではないんですけど、せっかくクリーニングに出してもらった以上は、しっかりきれいにしたい。新しいお家に、新しい気持ちで入れるようにと、ピアノに溜まった汚れは全部落とせるようにと思ってやっています。クリーニングすると、曇りガラスのようだったピアノに、鏡のような“ピアノブラック”の光沢がよみがえるんですよ。そこに自分の顔が映り込むと『よし!』と思います」
再びパーツをはめ込んでしまえば、その多くが見えなくなってしまう根岸さんの仕事。それでも「きれいにしたい」と思うのは、決して手を抜かない姿勢の表れ―根岸さんの職人としての良心とプライドが、美しくよみがえったピアノに映り込みます。