コーヒー豆の香りが咲く、わずかな一瞬を逃さない
「焙煎は、コーヒーの風味を決定する、ものすごくデリケートなプロセスです。火入れの秒数がわずか1秒違っただけで、余計な酸味や苦味を引き出してしまいます。その一方、タイミングがぴったり合うと、うま味や甘味、あるいは透明感すら抽出されてくるのです」
そう話すのは、千葉県我孫子市にて直火焙煎したコーヒー豆の小売店を運営している、鈴木正美さん。「綺麗(きれい)」「ときめき」「幸せなるときに…」。同店の棚を飾るのは、そんな一風変わったネーミングのブレンド豆。よく見掛けるような「マイルドブレンド」「キリマンジャロブレント」といった名前はありません。
「かつてのコーヒー業界は、『一般の方が豆のことをあまり知らない』という前提で成り立っていました。酸っぱくて飲めないようなコーヒーに文句を付けられても、この豆はもともと酸味が強いんですと言い切れば、何とかなりましたから。それに、『スペシャルブレンドはコーヒー豆の墓場』などと呼ばれていましてね。古くなったり余ったりした豆を集めて『スペシャル』と、そう称していた店もあったようです」
しかし、豆本来の持ち味を知っていれば。そして、それを偶然ではなく技として常に焙煎することができれば…。あたかも色鮮やかな錦糸で織物を紡ぐように、コーヒーのイメージがブレンドできるのではないか。そう思い付いたとき、鈴木さんは、コーヒー豆の小売りだけでやっていこうと決意されたそうです。
「おかげさまで、『面白いし楽しいし、それでいておいしい。決まり切ったコーヒーと違うんだね』という評判が広まり、企業のイメージに合わせた商品なども手掛けるようになりました。例えば、全日空スカイショップのオリジナル商品『焙煎職人』には、空の旅を思わせる6つのイメージがブレンドされています」
常に期待を上回るのが人の技、一定の仕事なら機械でもできる
焙煎人の「心と技」こそが一番重要である。鈴木さんは、折に触れてそう話されます。「心」とは、ごまかしや偽りが入り込む隙をなくすべく、お客さんへ直に手渡すこと。「技」とは、甘味や透明感が咲く一瞬のタイミングを逃さないこと。
「当店にはリピーターの方がよく訪れます。そうした皆さんは、『また、あの味を楽しみたい』と来店されるわけですが、どこかでそれ以上のものを求められているのではないでしょうか。期待以上のクオリティーをご提供しないと、決して満足には至らない。日々、進化し続ける必要があるのです」
そんな鈴木さんのこだわりが、コーヒー豆の「直火」焙煎です。同じロースト方法でも、「熱風式・半熱風式」とは異なり、豆を直接火に当てるのが最大の特徴。よりダイレクトなだけに、タイミングが難しい一方、成功したときの手応えはひとしおなのだとか。
「直火焙煎のタイミングを木のバットに例えるなら、『真芯を食ったホームラン』のような感覚。少しでもずれれば、ゴロやフライになってしまいます。まぐれ当たりではなく、いつでもホームランが打てるようになるまで、約10年の歳月を要しました」
なお、同店の定番は、「NO.1ホテルセレクト」100グラム580円(税別)と、季節ごとに創作する各種ブレンドの二本柱。例えば2月、3月なら、バレンタインデーやホワイトデーをイメージした「かけがえのない人へ」を提供。ほか、常時約50種のブレンド豆が楽しめます。
「単なる豆の販売店ではないと考えています。バレンタインデーや誕生日、結婚式などの折々に、その方の気持ちを伝えるお手伝いができればうれしいですね。また、ネーミングのイメージが皆さんの期待にある程度、沿っているからこそご好評いただいているのでしょう」
学べることの大切さに、人はなかなか気付けない
直火焙煎のコツをつかむのに、約10年の歳月を要したという鈴木さん。1つの成功の裏で99の失敗を繰り返しながら、ほぼ独学によって工夫・研究を積み重ねてきたそうです。果たして、マニュアルや資格のような基準はなかったのでしょうか。
「現在のようなカフェチェーンが進出する前の時代でしたから、自分で試行錯誤していくしかありませんでした。今思えば、随分と遠回りしましたね。私からしたら、マニュアルや学ぶ場があるという、そのことだけでもうらやましいと思います」
続けて鈴木さんは、「自分のために腕を磨いたつもりでも、そのこと自体が社会に貢献している」とおっしゃっていました。ひとつの仕事に対し、きっと喜んでくれる人がいるはずだと。鈴木さんの場合、それがたまたまコーヒーであっただけ。
最後に、おいしいコーヒーの入れ方を教わってきましたのでご紹介まで。直火焙煎豆の場合、お湯の温度を80度くらいに落とし、その代わりカップを温めておくといいそうです。全体にお湯を回すと粉が膨らんでくるので、その後は、ひたすら中心に注いでください。そうすることで、粉を通過する時間が長くなります。フィルターにお湯を当ててしまうと、粉を通らずに流れていってしまうのでご注意を。
「どのような入れ方でも温度でも、今のコーヒーに満足しているなら、それで構わないでしょう。他人の入れ方を『間違っている』と言うつもりはありません。ただ、プラスアルファを狙うなら、ぜひ、試してみてください。職人の真の意図であり、味わったことのない甘みや風味が、より感じられると思います」
先人が極めた王道には、最良のエッセンスが詰まっているはず。それを学習できるということ自体、とても貴重なことなのかもしれないですね。最良のエッセンスが抽出された珠玉の一杯には、前へ進む勇気もブレンドされていたようです。